●Story01.
暦と天文学
当ラボが研究しているライフサイクル分析学は、古代中国を起源とする干支学(かんしがく)と陰陽五行論(おんようごぎょうろん)を基にしています。
まずは干支学の基でもある暦についてのお話です。
私たちが現在使っている暦は、世界各国で使われている、一年を365日とする太陽暦のグレゴリオ暦です。
しかし、アジアやイスラム圏では今もなお旧暦を併用している地域もあります。
ちなみにグレゴリオ暦とは、1582年にユリウス暦を改暦したローマ法王グレゴリウス13世の名にちなんでいます。
暦はどのように生まれたのでしょう。
暦の起源は天文学と大きく結びついていると考えられています。
また、天文学の起源も暦を作ることから始まったと考えられています。
古代エジプト文明において、ナイル川の氾濫の時期に周期性があることに気づいたのが暦の始まりと言われています。
水は人々の生活にとって必要不可欠な資源であると同時に、生活を奪っていくものでもありました。
氾濫の時期を知ることで民衆の信頼を得ることができます。
そのため、権力者は学者を集めて天体の周期性を研究させ、暦を考案させました。
それが、暦の始まりです。
古代エジプトで考案されたのが古代エジプト暦で、シリウス暦とも呼ばれています。
夏至の頃、日の出前に東の空にシリウス星が現れると、それを合図に洪水が始まることに気づき、その周期性を基に暦ができたようです。
洪水と洪水の間を数えると約365日になることから、太陽暦とも言われています。
その後、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がエジプト征服後、古代エジプト暦を改暦しユリウス暦を作りました。
それがやがてキリスト教と結びつき、1582年グレゴリオ暦に改暦されるまで、約1500年もの間ヨーロッパを中心に広く採用されていました。
その後グレゴリオ暦はカトリック地域ではすぐに採用されましたが、東方教会やプロテスタント諸国ではユリウス暦を使用し続けました。
中でも、英国は18世紀まで使用、ロシア正教会においては現在も尚ユリウス暦を使用しています。
暦は民を支配する為のツールと考えられていた時代においては、暦を使うことは、作成者の支配下に入ったことを意味するため、おいそれとは採用できなかったのです。
このように、かつての暦は現代の私たちが連想するカレンダーではなく、支配者の特権として使われていたのです。
暦には大きく分けて3種類あります。
①太陰暦
②太陽暦
③太陰太陽暦
明治5年から日本では②を基にしたグレゴリオ暦を使用しています。
それまでは中国伝来の③を使用していました。
①②③を少し解説しておきます。
①太陰暦
月の公転周期が基準
月が地球の周りを一周するのに、季節によって多少ズレがあるのですが、約29.53日かかります。
これを1ヶ月とすると、1年は354.376日で33年で約1年のズレが生じてしまいます。
月は肉眼で見えることから、人類が最初に作った暦は太陰暦と考えられています。
②太陽暦
地球の公転周期が基準
太陽の黄道上の運行、つまり季節の周期を基に作られ、月の満ち欠けは入れません。
地球が太陽を一周するのに365.242日かかりますが、1年を365日とし、4年に1日閏日を作って調整しています。
太陰暦ではわからなかった季節の移り変わりがわかる暦です。
③太陰太陽暦
月の満ち欠けを基にした太陰暦に、季節の変化がわかる太陽暦を取り入れた暦。
太陰暦と太陽暦には1年に11日のズレが生じるため、両者のズレが1ヶ月になった時、つまり約33ヶ月ごとに29日か30日の閏月を入れます。
紀元前の古代ローマや古代中国等で既に使われていました。
日本はいつから暦を持ったのでしょう。
日本書紀に飛鳥時代の推古12年(604年)に朝鮮半島の百済の僧、観勒(かんろく)により、中国を起源とした暦(元嘉暦げんかれき)が伝えられと記されています。
遡って553年には、暦博士を百済から招き、暦本を入手しようとしたとも日本書紀に記されています。
その後の大化の改新で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)が、暦の制定任務にあたりました。
その後平安時代に入った864年、唐の宣明暦(せんみょうれき)が採用され、1685年、渋川春海により日本独自の大和暦が作成されるまで800年以上使用されました。
江戸末期までの“天文学”は中国思想をベースにしたもので、大きく『暦学』と『天文』に分類されます。
◯◯大学天文学部に暦学科と天文科がある感じでしょうか。
前者は暦の作成を、後者は支配者のための天文占いを目的としたもので、両者とも国家権力と切っても切れない関係でした。
なぜ?
それは、古代中国の天命思想に基づいているから。
天命思想とは、宇宙を支配しているのは“天”で、地上の支配者は、“天”から支配するように命ぜられた人(天子)であるという考え方です。
天は天子の行いの良し悪しや天災・疫病・反乱など様々な事柄に対してメッセージを送るとされていました。
とはいえ、天は言葉を発するわけはなく、日月食や彗星などの天体現象や虹などの気象現象という形で送ると考えられていました。
これを「天の文(あや)」と言い「天文」の語源です。
従って、天子は常に空を見上げ、何か変わった現象を見るとその意味を読み取り、政治に反映していました。
当時、天文に携わる人たちは、天体現象や気象現象と地上で起こった事件との関係性を探るため、常に天を見上げ膨大な量のデータを客観的に記録していました。
ここまでが、二つに分かれていた天文学の中の『天文』セクションで行われていた仕事です。
次に『暦学』セクションで行われていた仕事についてです。
天文占いと同じく支配者の重要な仕事が暦作りでした。
農業がベースの古代国家では、種まきや収穫の時期を民に知らせることは権力者の仕事でした。
権力者たちは天の動きを詳細に観察して暦を発行し、民に正しい時を授けることで、「我こそが正当な支配者」であることを宣言していたのです。
このように、暦の制定は国家支配の象徴であり、その暦に従うということは、先述したように、作成者の支配下に入ったという意味を持っていました。
この意味がわかると、いまだにグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦を使い続けているロシア正教会の立ち位置も理解できますね。
飛鳥時代に、朝鮮半島経由で日本にもたらされた中国暦とはどのようなものでしょう。
中国最古の暦は、殷(いん)王朝に成立した殷暦とされています。
殷王朝は紀元前17世紀〜1046年まで続いた王朝なので、その頃には中国はすでに天体観測できる技術を持っていたことになります。
スゴイ!
殷暦をはじめ、古代より中国で作られてきた暦は干支(かんし)で記述されているため、干支暦(かんしれき)と言います。
干支とは「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸こうおつへいていぼきこうしんじんき」の十干と「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい」の十二支を組み合わせたもので、甲子(こうし)から癸亥(きがい)までの六十干支で構成されています。
干支暦は天子(支配者)が変わる度に改暦され、その度に精度が増しました。
初めて日本に入ってきた元嘉暦(げんかれき)は殷暦から数えてざっと12番目です!
平安時代に入ってきた宣明暦(せんみょうれき)は元嘉暦から数えて18番目です!
以後、中国では26回も改暦されたにもかかわらず、遣唐使の廃止もあり、1680年頃に授時暦(じゅじれき)が入ってくるまで800年以上も宣明暦を使い続けました。
渋川春海とは?
渋川春海は江戸時代前期の天文暦学者で、囲碁博士であり、神道家でした。
江戸幕府の初代天文方を務め、1685年、日本初の国産暦である貞享暦(じょうきょうれき)を作成しました。
幼いころから算術・天文学・暦学・陰陽道などを学び、神童と呼ばれるほど才能を発揮したと言われています。
渋川春海の功績は、なんといっても日本初の国産暦を作ったということです!
それまで使用していた宣明暦(せんみょうれき)は唐の時代に作られたもの。
800年以上前に作られた暦にしてはかなり精巧だったものの、日本と中国の位置(経緯度)が違うことからズレが生じていました。
渋川春海は研究の中で「日本と中国の間にある時差」に気づき、膨大なデータを収集して、当時の中国の暦(授時暦)を日本用に改造していきました。
これでできたのが貞享暦です。
これを機に幕府は天文方を設置し、朝廷の陰陽寮での編暦作業の実務が幕府に移りました。つまり、江戸幕府による日本の支配が始まった=朝廷と民は江戸幕府の支配下に入ったのです。
まずは干支学の基でもある暦についてのお話です。
私たちが現在使っている暦は、世界各国で使われている、一年を365日とする太陽暦のグレゴリオ暦です。
しかし、アジアやイスラム圏では今もなお旧暦を併用している地域もあります。
ちなみにグレゴリオ暦とは、1582年にユリウス暦を改暦したローマ法王グレゴリウス13世の名にちなんでいます。
暦はどのように生まれたのでしょう。
暦の起源は天文学と大きく結びついていると考えられています。
また、天文学の起源も暦を作ることから始まったと考えられています。
古代エジプト文明において、ナイル川の氾濫の時期に周期性があることに気づいたのが暦の始まりと言われています。
水は人々の生活にとって必要不可欠な資源であると同時に、生活を奪っていくものでもありました。
氾濫の時期を知ることで民衆の信頼を得ることができます。
そのため、権力者は学者を集めて天体の周期性を研究させ、暦を考案させました。
それが、暦の始まりです。
古代エジプトで考案されたのが古代エジプト暦で、シリウス暦とも呼ばれています。
夏至の頃、日の出前に東の空にシリウス星が現れると、それを合図に洪水が始まることに気づき、その周期性を基に暦ができたようです。
洪水と洪水の間を数えると約365日になることから、太陽暦とも言われています。
その後、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がエジプト征服後、古代エジプト暦を改暦しユリウス暦を作りました。
それがやがてキリスト教と結びつき、1582年グレゴリオ暦に改暦されるまで、約1500年もの間ヨーロッパを中心に広く採用されていました。
その後グレゴリオ暦はカトリック地域ではすぐに採用されましたが、東方教会やプロテスタント諸国ではユリウス暦を使用し続けました。
中でも、英国は18世紀まで使用、ロシア正教会においては現在も尚ユリウス暦を使用しています。
暦は民を支配する為のツールと考えられていた時代においては、暦を使うことは、作成者の支配下に入ったことを意味するため、おいそれとは採用できなかったのです。
このように、かつての暦は現代の私たちが連想するカレンダーではなく、支配者の特権として使われていたのです。
暦には大きく分けて3種類あります。
①太陰暦
②太陽暦
③太陰太陽暦
明治5年から日本では②を基にしたグレゴリオ暦を使用しています。
それまでは中国伝来の③を使用していました。
①②③を少し解説しておきます。
①太陰暦
月の公転周期が基準
月が地球の周りを一周するのに、季節によって多少ズレがあるのですが、約29.53日かかります。
これを1ヶ月とすると、1年は354.376日で33年で約1年のズレが生じてしまいます。
月は肉眼で見えることから、人類が最初に作った暦は太陰暦と考えられています。
②太陽暦
地球の公転周期が基準
太陽の黄道上の運行、つまり季節の周期を基に作られ、月の満ち欠けは入れません。
地球が太陽を一周するのに365.242日かかりますが、1年を365日とし、4年に1日閏日を作って調整しています。
太陰暦ではわからなかった季節の移り変わりがわかる暦です。
③太陰太陽暦
月の満ち欠けを基にした太陰暦に、季節の変化がわかる太陽暦を取り入れた暦。
太陰暦と太陽暦には1年に11日のズレが生じるため、両者のズレが1ヶ月になった時、つまり約33ヶ月ごとに29日か30日の閏月を入れます。
紀元前の古代ローマや古代中国等で既に使われていました。
日本はいつから暦を持ったのでしょう。
日本書紀に飛鳥時代の推古12年(604年)に朝鮮半島の百済の僧、観勒(かんろく)により、中国を起源とした暦(元嘉暦げんかれき)が伝えられと記されています。
遡って553年には、暦博士を百済から招き、暦本を入手しようとしたとも日本書紀に記されています。
その後の大化の改新で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)が、暦の制定任務にあたりました。
その後平安時代に入った864年、唐の宣明暦(せんみょうれき)が採用され、1685年、渋川春海により日本独自の大和暦が作成されるまで800年以上使用されました。
江戸末期までの“天文学”は中国思想をベースにしたもので、大きく『暦学』と『天文』に分類されます。
◯◯大学天文学部に暦学科と天文科がある感じでしょうか。
前者は暦の作成を、後者は支配者のための天文占いを目的としたもので、両者とも国家権力と切っても切れない関係でした。
なぜ?
それは、古代中国の天命思想に基づいているから。
天命思想とは、宇宙を支配しているのは“天”で、地上の支配者は、“天”から支配するように命ぜられた人(天子)であるという考え方です。
天は天子の行いの良し悪しや天災・疫病・反乱など様々な事柄に対してメッセージを送るとされていました。
とはいえ、天は言葉を発するわけはなく、日月食や彗星などの天体現象や虹などの気象現象という形で送ると考えられていました。
これを「天の文(あや)」と言い「天文」の語源です。
従って、天子は常に空を見上げ、何か変わった現象を見るとその意味を読み取り、政治に反映していました。
当時、天文に携わる人たちは、天体現象や気象現象と地上で起こった事件との関係性を探るため、常に天を見上げ膨大な量のデータを客観的に記録していました。
ここまでが、二つに分かれていた天文学の中の『天文』セクションで行われていた仕事です。
次に『暦学』セクションで行われていた仕事についてです。
天文占いと同じく支配者の重要な仕事が暦作りでした。
農業がベースの古代国家では、種まきや収穫の時期を民に知らせることは権力者の仕事でした。
権力者たちは天の動きを詳細に観察して暦を発行し、民に正しい時を授けることで、「我こそが正当な支配者」であることを宣言していたのです。
このように、暦の制定は国家支配の象徴であり、その暦に従うということは、先述したように、作成者の支配下に入ったという意味を持っていました。
この意味がわかると、いまだにグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦を使い続けているロシア正教会の立ち位置も理解できますね。
飛鳥時代に、朝鮮半島経由で日本にもたらされた中国暦とはどのようなものでしょう。
中国最古の暦は、殷(いん)王朝に成立した殷暦とされています。
殷王朝は紀元前17世紀〜1046年まで続いた王朝なので、その頃には中国はすでに天体観測できる技術を持っていたことになります。
スゴイ!
殷暦をはじめ、古代より中国で作られてきた暦は干支(かんし)で記述されているため、干支暦(かんしれき)と言います。
干支とは「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸こうおつへいていぼきこうしんじんき」の十干と「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい」の十二支を組み合わせたもので、甲子(こうし)から癸亥(きがい)までの六十干支で構成されています。
干支暦は天子(支配者)が変わる度に改暦され、その度に精度が増しました。
初めて日本に入ってきた元嘉暦(げんかれき)は殷暦から数えてざっと12番目です!
平安時代に入ってきた宣明暦(せんみょうれき)は元嘉暦から数えて18番目です!
以後、中国では26回も改暦されたにもかかわらず、遣唐使の廃止もあり、1680年頃に授時暦(じゅじれき)が入ってくるまで800年以上も宣明暦を使い続けました。
渋川春海とは?
渋川春海は江戸時代前期の天文暦学者で、囲碁博士であり、神道家でした。
江戸幕府の初代天文方を務め、1685年、日本初の国産暦である貞享暦(じょうきょうれき)を作成しました。
幼いころから算術・天文学・暦学・陰陽道などを学び、神童と呼ばれるほど才能を発揮したと言われています。
渋川春海の功績は、なんといっても日本初の国産暦を作ったということです!
それまで使用していた宣明暦(せんみょうれき)は唐の時代に作られたもの。
800年以上前に作られた暦にしてはかなり精巧だったものの、日本と中国の位置(経緯度)が違うことからズレが生じていました。
渋川春海は研究の中で「日本と中国の間にある時差」に気づき、膨大なデータを収集して、当時の中国の暦(授時暦)を日本用に改造していきました。
これでできたのが貞享暦です。
これを機に幕府は天文方を設置し、朝廷の陰陽寮での編暦作業の実務が幕府に移りました。つまり、江戸幕府による日本の支配が始まった=朝廷と民は江戸幕府の支配下に入ったのです。